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さようなら、氷の英雄/デニス・テン、この夏リンクと共に永眠す

フィギュアスケーター、カザフスタンのデニス・テン選手が母国で暴漢に襲われ、25歳という若さで帰らぬ人となりました。多くの選手に敬愛されたテン選手を偲ぶ中国の記事をご紹介いたします。

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再见,冰雪英雄:这个夏天,丹尼斯·谭与冰雪同眠

【SOHU.COM】2018-07-20

7月19日夜、突如ニュースが舞い込んだ。

カザフスタンのフィギュアスケートの一人者であり、ソチ五輪男子シングルの銅メダリスト、デニス・テンがアルマトイで強盗2人に右大腿部を刺されて病院に搬送され、出血多量のため亡くなったというのだ。25歳の若さだった。

突然の訃報に世界中が驚き、このニュースが誤報であってほしいと多くの人が一縷の望みを託した。しかし現実は残酷だった。私たちを待ち受けていたのは、この訃報が真実であるという公式発表の数々だった。

25歳になったばかりの「リンクの王子様」が、いつもと変わりない平穏な午後に、車のミラーを盗もうとした強盗に殺害されるなどと、誰が想像できただろうか。 カザフスタンの国宝級アスリートが、フィギュアスケート界の光輝くスターが、人の手にかかり突然命を奪われるとは。

車のバックミラー=ひとつの人命?

7月19日の午後。 デニス・テンと彼の友人は、テンの車のバックミラーを盗もうとしている怪しい男二人を発見した。もみ合いになった際、強盗犯のナイフが運悪くテンの右大腿部動脈を傷つけた。その後テンは病院に搬送されるも、 「救急車で向かう途中、既に予断を許さない状態だった。テンは約3リットル出血し、蘇生処置を行っているところだ」 と公式報道されていた。 3リットルの出血とはどのような状況か。 一般成人の体内には4~5リットルの血液が流れている。もし突発的に体内の30パーセント以上、すなわち1リットル以上の出血があれば人体の機能は限界に達し、生命が脅かされる。 国際スケート連盟のデータによると、デニス・テンは身長168センチで、フィギュアスケーターの平均的な体形と推測すれば体重は60キロ前後だろう。体重と血液の比率で計算すれば、60キロの人間には最大4.2リットルの血液が流れている。つまり3リットル失血したデニス・テンはたとえ緊急搬送されても絶望的な状況だったと言える。 そして正式な訃報が届いた。 北京時間7月19日20時。現地メディアは「カザフスタンのフィギュアスケーター、デニス・テンが亡くなった。享年25歳」と伝えた。 病院関係者はこう語った。 「とても残念だ。彼は二度と私たちと同じ時間を過ごすことはない」 カザフスタンの保健省は、近いうちに正式な記者会見を開き、状況を説明する、としてい る。 現在警察の捜査も進められており、凶行に及んだとみられる容疑者2名を指名手配中であるとの発表がなされた。

カザフスタン史上最も偉大なフィギュアスケーター

1993年、デニス・テンはアルマトイの地で韓国の著名な将軍ミン・ゲンフォの末裔となる朝鮮系の一家に生まれた。幼少期に音楽や様々なスポーツの訓練を受け、最終的にはフィギュアスケートを生涯の生業として選んだ。 5歳のとき屋外のスケートリンクで生まれて初めてスケート靴を履いたテンは、10歳のとき出場したクリスタル・スケート選手権でエレーナ・ブイアノワに才能を見出され、両親や兄と離れて暮らすこととなる。2010年には更なる高みを目指してフランク・キャロルの師事を得るため、母親とともにロサンゼルスに渡った。アメリカに着いたばかりの頃は全く話せなかった英語は必死で勉強し、やがて自らのスケーティング同様、流暢になっていった。 「彼はとてもナイーブな子供で、音楽の中のきめ細かい情感を感じとることができました。ただ、これは必ずしも良い方向に働いたわけではありません。この特技を彼は恥ずかしがってしまい、自分の感情をさらけ出すことに抵抗を感じるようになったのです。」 しかし年を重ねるとともに、この中央アジアの少年は自ら重責を担うようになっていった。 「キム・ヨナと同じだね。自分一人の力で、母国のスケート界を背負って立つ。これは使命感みたいなもの。」 そうしてデニス・テンはカザフスタンの体育史に新たな時代を切り開いていった。 2009年、ロサンゼルスで開催された世界選手権で8位入賞。カザフスタンに2010年バンクーバー五輪出場の参加枠をもたらした。そして冬季五輪史上最年少のアスリートとして11位を獲得し、自らの輝かしいスケート人生に確固たる基礎を築いた。 デニス・テンの現役生活で最も特筆すべきはソチ五輪の銅メダルだ。 大会1日目の出来は理想とはかけ離れたものだったが、それでも彼は諦めなかった。スペインのフェルナンデスら並み居る強敵を振り切り、羽生結弦、パトリック・チャンに次ぐ171.04点を獲得して3位に入り、銅メダルを獲得したのだ。これはカザフスタンが独立して以来、フィギュアスケートで初めて獲得したオリンピック・メダルだった。 2015年。上海で行われた世界選手権で、テンは『シルク・ロード』の演目で銅メダルを獲得。これに先立って2015年四大陸選手権、2011年冬季アジア大会では優勝を果たした。テンは若くして母国の冬季スポーツの”顔”となり、2022年のアルマトイ冬季五輪招致の広告大使を務めた。 平昌オリンピックではショートで27位となり、フリーに進むことはできなかった。この大会後、テンは現役引退を発表した。 テンはシーズン・オフの期間を利用してカザフスタンにスケートのカリキュラムを開設。2013年には自らが得た大会の報奨金を投じてアスリート育成基金を設立している。 忘れてはいけないのは、そのときテンはまだ20歳の若者だったと言うことだ。 彼は言う。

「わが国のフィギュアスケートの未来は全て僕の肩にかかっている。でも僕はそれをちっとも重荷だとは思っていない。むしろ感謝しているし喜びでもある。フィギュアスケートを普及させることができるなら、広告だろうとテレビ番組だろうと雑誌の取材だろうと、どんな仕事でも受けたいと思う。それでこのスポーツが発展すれば、こんなに嬉しいことはないから」

オン・アイスでもオフ・アイスでも大活躍

~中国のファンがつけたニックネーム~ デニス・テンの「テン」は英語の10と同じ発音だ。このことから中国のファンは親しみを込めて彼を”10元”と呼んでいる。 カザフスタンスケート界の広告塔として、デニスは様々な国際的なイベントに引っ張りだこだった。中国チームの闫涵(エン・カン)や李子君(ジジュン・リ)とも親交がある。

李子君のブログより
「彼にはとてもお世話になったの…本当にたくさん…彼は私が落ち込んでいるとき、いつも笑わせてくれた…子供の頃も、そして友達になってからも、ずっと憧れの人だった。あなたはこれからもずっと傍にいてくれると信じていたのに… つい先日、私に「諦めるな」と励ましてくれたあなたが、なぜ先に行ってしまったの? 私たちはみんな、あなたが恋しい…」

闫涵のブログより
「今ようやくこの事実を知った。どうか間違いであってくれとどれほど願ったことだろう。お互い12歳でジュニアに上がり、グランプリ・シリーズではいつも同じ大会にエントリーした。同じように絶頂へ上り詰め、同じようにどん底を味わった。切磋琢磨する仲間であり、尊敬するライバルでもあった。母国のフィギュアスケート界の発展を目指し、君が呼びかけた演出に僕も参加させてもらったことを心から誇りに思う。大切な友よ、どうか安らかに。天国のリンクでも美しく舞ってくれ。」

デニス・テン、どうかあの世で安らかに。

(訳:まくりあ)

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